セカイ

 目が覚める。引き戸を開けると二階から喋り声が聞こえてくる。

そんな朝に感動を覚えたのはせいぜい二日か三日程度。すぐに慣れた。あっさり慣れた。

コスタリカから帰国していつの間にか一ヶ月以上経っていた。募り募らせた日本食への期待や家族との再会も、その味わいは流れ星のスピードで満足感を連れてきては過ぎ去って行った。

満員電車や人混みの中で忙しなさに背中を突かれているような人々に恐怖心を持っていたけれど、もうすでに私もそんな忙しない日々を過ごしている。

人間の適応能力というのはすごいんだなと思いつつ、ちょっと海外に行っていたくらいで不安がってた自分は”海外かぶれ”なんて言葉で揶揄されてしまう人になっているのだろうかと不安もある。今これを書きながら、海外かぶれという言葉の意味を調べてみたら、「海外かぶれで嫌われる10の行動~」なんて記事まで出てきて、そうだこういう国だったと何だか安心した。日本への批判や「○○(国名)では~」から話を始めるといった行為が嫌われるらしい。最後までは読まなかった。

私、変わったのかな。って夜寝る前とか、電車で壁にもたれている時とかに聞こえてくる。

人見知り治った?社交性出てきた?考え方、価値観、人間力。変わった?上がった?

全てが良い方向に動くという前提で考えている時点でダメなんじゃない?

ダメって何がダメなのさ。

・・・。

答えの出ないことをぐるぐる考えるのはいつからかのクセだと思う。

以前より人と話すのが楽しくなっているのは確かだ。伝わりにくいかもしれないがこれは私にとってとてつもなく大きな変化だ。言葉が不自由な日々を過ごして、もっとこの人の話を理解したい、自分の話を伝えたいという思いをコツコツ積み上げた成果ということにしたい。と同時にこれまでどれだけ他人に興味が無くてひとの話を聞いていなかったのか思い出すのも恐ろしい。話全然聞いてないよねと注意しながらも友達で居てくれた16?17?年来の親友は菩薩なのだろうか。前から話すのも聞くのも好きではあったが(多分)、それは対象がかなり絞られていた。とあたかも他にその要因があるような言い方をしたが、シンプルに友達が少なくて、みる目もないくせに怖がるふりをして様子見をし続けていた自分のせいだ。コスタリカのフランクで陽気な人々がそんな私の”対ひと”への先入観をちょっとずつ砕いていってくれたのだと思う。

今までは他人との間にとりあえず壁を立てて、その壁に覗き穴を開けて、、と自分から手間と時間を増やしていた。しかしコスタリカではそんな時間は与えられない。

コスタリカにいる間、いくつかのルールを自分に課していた。その一つが「誘いを断らない」だった。

そのルールのおかげで、よく知らない人の結婚式に出てたり、チームメイトとその妹とその彼氏でお寿司を食べていたり、バーではいつも初めましての人たちとテーブルを囲んだ。まさに、友達の友達は友達の世界。バーでたくさん話しかけてくれたおじさん。楽しそうにずっと喋っていた。多めに見積もっても理解できたのは二割くらい。ニコニコと一生懸命喋って、時折「分かる?」「そう思うだろう?」と思い出したように聞いてくる。分からない。私だって喋りたい。もどかしい、悔しい、でもなんだか楽しい。よくこの不思議な感覚に包まれた。

世界は広い。セカイはもっと広い。

耳と目と肌。今まで独立していた感覚が少しづつ繋がりを持ち始めている。大きな身振り手振りで必死に喋る人が愛らしいと感じるようになった。「そう思うだろう?」と聞かれて「思わないよ」と答えてもまた楽しくお喋りが始まることに安心した。好奇心は信頼と驚きから生まれるらしい。なるほど、しっくりくる。マイブームは人間観察な今日この頃だ。楽しませてもらえる相手との過ごし方しか知らなかったけれど、その時間を”楽しむ”術を手に入れた。

世界の広さは外に出ないと分かりにくいけど、セカイはどこにいてもある時突然ふわっと広がるもののような気がする。

高校時代、「かわいい」と「それな」の2ワードで通じ合うクラスメイトたちは私が22歳でようやく辿り着いたこのセカイをすでに生きていたんだろうか。羨望の裏返しで内心小馬鹿にしていたことを詫びた方がいいのかもしれない。

いや、そこまでじゃないか。

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